モーツァルトと並ぶ天才と評された歌曲王
フランツ・ペーター・シューベルト(1797~1828)
1828年にわずか31歳で亡くなるまで600曲ほどの歌を作曲したシューベルト。特に1815年は1年間で145曲も作曲(休日を除いて2日で1曲ペース)したといわれています。
後世に名を残した偉大な作曲家はすべからく「天才」と評されていますが、クラシック音楽を聴かない人でも「魔王」、「野ばら」、「子守唄」、「アヴェ・マリア」、「菩提樹」などパッと名前が浮かぶ美しいメロディを作り続けたのは彼が一番ではないでしょうか。
ドイツ歌曲における功績から、「歌曲王」と呼ばれることもありますが、歌曲以外でも「未完成交響曲」や「ピアノ五重奏曲 ます」など交響曲、ピアノ曲、室内楽曲など、器楽曲でも名曲も多く残しています。
天才はどこか一つ「抜けている」部分があるのか、彼はその忘れっぽさが有名で、道を歩いていると美しい曲が聞こえてきたので、足を止めて誰の曲ですかと訊いたところ「シューベルトさんの曲ですよ」と言われたというエピソードもあるほどです。
若干17歳で歌曲の代表曲を作曲
シューベルトは1797年1月1日、教師である父テオドールの12番目の子供(14人兄弟でしたが、9人が早世)として、ウィーン近郊で生まれました。
5歳の頃には父からヴァイオリンを、兄のイグナーツからピアノを教わりはじめましたが。7歳の頃にはもはや2人が教えることがないほどの上達振りを見せたため、リヒテンタール教会の聖歌隊指揮者をしていたミヒャエル・ホルツァーに指導を託されることになりました。
11歳でウィーンの宮廷少年合唱団のメンバーに選抜され、17歳の時には歌曲の代表曲となっている「糸をつむぐグレートヒェン」を作曲しています。その後、宮廷歌手であるミヒャエル・フォーグルとの交流を通じて多くの芸術家との交流を深め、そうした友人達との集まりである「シューベルティアーデ」を中心に、自作を次々と発表していきました。
彼はゲーテをはじめ、クラウディウスやショーバーといったロマン派の詩人達の詩を題材に、多くの歌曲を作っています。また、エステルハージ伯爵の令嬢達のピアノ教師として、多数の連弾曲も残しています。
歌曲は、1823年から1828年にかけて相次いで発表された、「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」、「白鳥の歌」の3大歌曲集をはじめ、「糸を紡ぐグレートヒェン」、「水の上で歌う」など、どれも情感あふれる優れた作品ばかりです。
また管弦楽曲では、彼自身がまだ完結したものとは考えていなかった「未完成」と「サ・グレイト」の2曲の交響曲が、心のうちを大胆に表現しており、その後の後期ロマン派に大きな影響を与えました。
ピアノ曲では、「楽興の詩」、「即興曲集」などのシューベルトらしい愛らしい作品が有名ですが、晩年の「ピアノ・ソナタ第21番」は、作曲技法も格段の進歩を見せ、しっかりとした構成のなかに豊かな詩情をたたえた作品になっています。
ロマン派への架け橋
1827年にベートーヴェンが亡くなったとき、シューベルトは以外を墓地へと運ぶ人たちのなかへ、松明を持って参列しましたが、この時彼に残された命があと1年しかないことは誰も予想していなかったでしょう。この年に作曲した歌曲集「冬の旅」の深い哀愁に満ちたメロディが運命を暗示しているようです。
作曲家として認められたシューベルトは翌年、初めて自作のみで公開演奏会を開催します。この演奏会は、それまで歌曲やピアノ曲などの作曲家として知られていた彼が、いよいよ交響曲やオペラの作曲家として、ウィーンの聴衆に認知させるための大きな舞台となるはずでした。しかしその年の11月、不治の病とされた腸チフスを患い、闘病から2週間後の11月19日、兄フェルナンドの家でわずか31年の人生に幕を下ろしたのです。
彼は若くして世を去ったこともあり、シューマンやベルリオーズのような音楽理論を持っていませんでした。彼の生み出した珠玉の作品群は、人間の喜怒哀楽をsのまま音楽に表したものでした。曲の形式は古典をそのまま受け継いでいましたが、その中に盛り込まれた内容は、ブラームスやシューマン、マーラーといったドイツ・ロマン派の作曲家達のなかに、しっかりと受け継がれていくことになるのです。