艱難辛苦を乗り越えて理想を追求した楽聖
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)
「運命はこのように戸を叩くのだ」と弟子に言ったとされる「ジャジャジャジャーン」のオープニング有名な「交響曲第5番 運命」、年末になると必ずどこかで耳にする「交響曲第9番 合唱(いわゆる第九)」などで幼い頃からその音楽に馴染みのあるベートーヴェン。
教科書などではバッハの「音楽の父」に対して、ベートーヴェンは「楽聖」と記されています。彼が生きた19世紀のドイツで、どうして「楽聖」と呼ばれたのでしょうか? 19世紀のヨーロッパは、それまでの封建社会を打ち破って市民が権利を掴んだ時代で、なによりも個人の意思が重視されていました。
自分の信念に基づいて、普遍的な理想や理念を具現化する芸術家は彼らの理想であり、なかでも難聴をはじめとする様々な苦難と葛藤しながらそれを克服しようとしたベートーヴェンの音楽は芸術家の人生と作品が一体となるという理想を最もよく表現していると賞揚されたため、そこから「楽聖」と名づけられたのでした。
厳しい家庭環境のなかで、才能を開花
ベートーヴェンは1770年12月16日、宮廷歌手である父ヨハンの長男として、現在のドイツにあたる神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンに生を受けました。音楽家でありながら酒に溺れる日々を送っていた父は一家を支えるほどの収入がなかったため、父と同じく宮廷歌手として成功してた祖父のルートヴィヒが彼の一家を支えていました。
1773年、その祖父がなくなり生活は困窮します。音楽家としてのキャリアは終わってしまった父でしたが、幼い頃からの英才教育でモーツァルトが才能を開花させたエピソードにヒントを得て、息子のベートーヴェンを第二のモーツァルトとすべく、厳しい音楽教育を課します。彼の教育は大変厳しいもので、後年彼を苦しめた難聴のきっかけ父による暴力も一因ではないかという説もあります。
息子を金を運んでくる道具としか考えなかったふしのある父親の教育はその手法に疑問があるものの、ベートーヴェンは早熟の天才として音楽の才能を開花させ、10代半ばで既に一家の家計を支える大黒柱となっていました。
1787年、ボンからウィーンに移ったベートーヴェンは憧れであるモーツァルトの知己を得ますが、父親の代わりに弟の面倒を見なくてはならなかったり、弟子入りを申し込んだ直後に、母マリアが亡くなったため故郷へ帰り、幼い弟達のために仕事を掛け持ちするなど大変忙しい日々を送ることになります。モーツァルトはその4年後に35歳で亡くなったため、彼の元に弟子入りすることはありませんでした。
1792年、22歳になったベートーヴェンはハイドンに師事、音楽の都ウィーンに移住します。そしてハイドンから本格的に音楽を学んだ彼は、1794年にはじめて「ピアノ三重奏曲」を作曲します。しかし、ようやく世間的にも名声を得てきた矢先に持病の難聴が悪化してしまいます。
苦難のなかでつかんだ栄光
1802年、32歳になったベートーヴェンは有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を記し自殺も考えましたが、強靭な精神力をもってこの苦難に立ち向かい、理想を追求する道へと進んでいくことになりました。
当時の彼の作曲は「交響曲第3番ホ変調 英雄」を皮切りにその密度を高めてゆき、「第5交響曲」に代表される「苦悩と葛藤しながらそれを克服する」という理想主義的な自己実現の過程で音楽を表現したことから、19世紀の音楽家や芸術家にとって彼の音楽は、長く規範となり続けたのでした。
晩年はその名声が日増しに高まっていったものの、難聴は悪化する一方でした。彼自身が指揮をとって初演された「第九」は、演奏後の聴衆の熱狂的な拍手すら聞こえず、アルトの独唱者に促されて振り向いて、はじめて喝采に気づいたという胸を打つエピソードも残っています。
また、この頃は甥であるカールの養育権争い、カールの自殺未遂など彼の周りに問題は絶えませんでした。プライベート問題は彼の頑なさが原因であることが多いのですが、その妥協のなさが会ったからこそ、勃興してきた新しい社会に流されることなく、音楽の理想を追求し続けることができたのかもしれません。
1826年12月、肺炎を患うなどして病状が急激に悪化したベートーヴェンは病床に臥し、10番目の交響曲が未完成のまま、翌1827年3月26日、56年の生涯を終えました。葬儀には2万人もの人々が駆けつけ、彼の偉大さをあらためて世に示すこととなりました。