音楽の父と称されるドイツ・バロックの巨匠
ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)
小・中学校の音楽の教科書で必ず「音楽の父」として紹介されるバッハですが、父というとバッハ以前には音楽そのものが存在していなかったような感じですが、もちろんそんなことはありません。
この呼び方は、ドイツの音楽を至上とする19世紀の同国で生まれたものです。ではなぜ「音楽の父」とドイツで呼ばれたかというと、それまで音楽の中心であったフランスやイタリア、そして自国ドイツのそれぞれのバロック音楽の要素を融合させて、普遍的活体系的な様式を持った作曲をしたためです。
つまり、それそれの国の伝統的な音楽語法を集大成としてまとめあげ、それがバッハ以降のクラシック音楽の礎をつくったというわけです。
ブクステフーデの荘重で幻想的な作風の研究に没頭
バッハは1685年、楽師である父アンブロージウスの8番目の子供、ドイツ中部のアイゼナハに生を受けました。彼の家計が多くの音楽家を輩出していることは有名で、5代前から成人した多くの男子は音楽によって生計を立てていたといわれています。
幼少期のバッハについては参考となる資料があまり残っていませんが、バッハが10歳のときに父が亡くなったため、祖父のもとで音楽の勉強に励み、1703年に現バッハ教会であるアルンシュタットの教会のオルガニストに任命されています。
当時、大変な人気を誇っていたオルガニスト、ブクステフーデの荘重で幻想的な作風に強く感動したバッハは、彼のオルガン演奏を聴きに行くために休暇を取って、3ヶ月も戻らなかったというエピソードが残っています。後世に広く知られることとなる「トッカータとフーガ ニ短調」はこの時期の作品です。
1708年、ワイマールの宮廷オルガニストの地位を得たバッハは、その実力を高く評価され、14年からは宮廷楽師長(コンツェルト・マスター)も兼任することになります。バッハはこの時期に現存する半数以上のオルガン曲を作曲しているほか、ヴィヴァルディなどの形式美と歌謡性を兼ね備えたイタリアの様式を吸収します。
独自の手法で、イタリアの独奏楽器のための協奏曲の書法をチェンバロ独奏用に昇華させた「イタリア協奏曲」は、バッハのこの時代の代表作の一つとなっています。
しかし、領主のお家騒動に巻き込まれたバッハはワイマールでの仕事に熱意を失い、コネクションを通した推薦でケーテンの宮廷楽長の職に就くことを決意します。しかし、有能な彼を手放したくない領主は辞任を認めないばかりか、彼を投獄してしまいます。
ケーテンの楽師長~ライプツィヒの音楽監督時代
1717年、ワイマールを追放されてケーテンにある「コレギウム・ムジクム」という宮廷合奏団の楽師長として活動を開始したバッハは、音楽教師としての仕事もこなしながら、多忙な日々を送っていました。
バッハは多くの室内楽や器楽曲、鍵盤楽器のための練習曲を作曲しなければなりませんでしたが、「ブランデンブルグ協奏曲」や「管弦楽組曲」、「インヴェンションとシンフォニア」や「平均律クラーヴィァ曲集」などの傑作はそのなかから生まれたのでした。
彼が最も長く職についていたのは、ケーテンの次の赴任地であるライプツィヒで、65歳で亡くなる1750年まで聖トーマス教会の音楽監督の地位にありました。この時代のバッハは、教会のための多くのカンタータや、「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」の二つの受難曲、「ミサ曲ロ短調」などの合唱作品、「フーガの技法」や「音楽の捧げもの」などの作曲を行っています。
40歳代後半から眼病に悩まされていたバッハは医師であるジョン・テイラー(ヘンデルの目を手術し失敗したことでも有名)の手術を受けますが、術後に視力の大半を失った上、体調も悪化し、翌50年に帰らぬ人となってしまうのです。